セクシュアル・スタディーズ。

krff2008-08-29


quです、こんにちは。

先日、岡山の古書屋さんで見つけ購入した本がヒジョーに面白くて、どんどん読み進んでます。


 上野千鶴子「発情装置-エロスのシナリオ」


この批評家はフェミニスト、ではあるけれど、セクシュアリティ全般を俯瞰して書かれた本書の語り口は、とても痛快です。

セクシュアルマイノリティを問題にする時、切っても切り離せないのは、それに呼応するセクシュアルマジョリティの問題です。つまり、どちらかだけ論じても仕方がないんであって……それだけ根が深い、と言えば、まさにその通り。
同性愛者や両性愛者、性同一性障害の当事者がなぜ、社会に対して葛藤するのかを考える時、それは、文化に根ざした問題でもあるわけで。

例えば昔は、「同性愛」という括りすらなかったという。それは人間の至極まっとうな感情として、異性愛と分け隔てられることなく、ただ、愛情として扱われていた。同性を愛そうが、異性を愛そうが、それはその人の個性として、言語化されるこことなく、認められていた。
それが分離するのは結局、政治的な陰謀(戦争時代の、『生めよ増やせよ』キャンペーン)だったり、宗教的なものに起因した差別だったり、で。いつのまにかそれは、『子孫を残す』という名目の下に、分類されるべきものとして取り扱われるに至った。

社会の至るところで適用されている、「男」と「女」を選択する二元論方式であったって、結局のところ、そういうことなのではあるまいか。(どちらかを選ぶことで、「性」から心が切り離されしまうような感覚に陥る性同一性障害の人も多いことでしょう。)

確かに、子供を生み育てていくことのかけがえのなさは、自分の姪っ子をすぐそばで見ていても、身に沁みて解かる。
生命の不思議。溢れ出してくる、愛おしさや慈しみの感情。
無防備な子供たちの表情を、すぐそばで見ているだけで、こんなにも幸せな気持ちになれるのは一体、何故なんだろう?

同性パートナーとの間に、自分の子供を持てるならという感情は、時々、起こる。しかしこれは、医学がさらに進歩しない限り、決して叶うことはない。

例えば、異性愛者のカップルにしたって、自分たちの子供を望んでいるのに、不妊症でどうしても子供が持てないというケースだって、しかとあるわけで。
ぼくには実際そういう友達があり、そこに葛藤があったこともよく知っている。

田舎に行けば行くほど、この『子孫繁栄主義』は根深い。下手をしたら、原理主義である。それで説明できないものは、みんな排除されてしまうのだ。
自分と同じセクシュアリティの仲間が身近に居ない、地方のセクシュアルマイノリティたちは、それが前提で話をされることに、ほとほと、うんざりしている。

これだけ豊かな時代。ありとあらゆる価値観が、認められている時代。こんな時代だからこそ、子供を持たないと決めるカップルがあっても、それはそれで良いのではないかと思う。どちらにしろ、子供が居ないことで引き受けなくてはならない諸々の代償を払うのは、その当人なのだから。
そこまで、第3者が介入する話でもあるまい。



セクシュアルマイノリティという言葉の意味は、性的少数者である。これに該当するのは、同性愛者や両性愛者、性同一性障害の人々という認識が一般には強い。(LGBT=レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー
しかしそれも、セクシュアルマイノリティの中のマジョリティなのであって、ほんとはそこから零れ落ちているマイノリティも、もっともっと居るはずで。

映画祭が『性の多様性』を謳う以上、そういうところにも意識的でありたいと思う。(すべてを意識化しなければならないというわけではありません。)